自分らしく

メタバースの危険性を考える(2)

「メタバース」というデジタル世界の危険性

少し前の土曜朝の番組『ウェークアップ』で、「メタバースの世界(バーチャル空間)ではデータ活用が最大に可能になり、効率的な経済活動ができる」といった話題を特集していました。そのとき、天気予報士が「メタバースではお天気がないのでボクは不要ですね」とイチビってましたが、確かにデジタルなバーチャル空間では自然現象は出てきません。雨の日も雪の日もメタバースでは活動に無関係なのです。想いの世界(意識の世界)だからですね。ですから、私たちは今後「自然」のない世界で活動していくのだと思うと暗澹たる思いがつのりました。

自然現象がないというのは、人間関係だけの世界で生きるということ。アバター(自身の分身)が他のアバターと生活や仕事や争いをしながら社会活動をしていく。なら、リアルにやれよと私なら思うのですが、「バーチャルだから、やり直しや仮想的にシミュレーションできるので安心ですよ」ということらしいです。

人間関係もやり直しができるのか? 不幸な自分を作り直せるのか? などと考えちゃいますが、そこは仮想世界の設計でなんとでもなるらしいけれど、ただアバター自身は固有の存在なので、肩書きに自分を寄せていく存在なのです。他の人もみんな同じように肩書きをもって生きていくのです。他人の目を気にしながら、いくら稼いだ、あいつは運が良いなどと、より鮮明に人間関係が浮き彫りになっていく世界です。

よく考えると、自然のない人間関係だけの世界って、現代人の社会生活とさほど変わらないのかもしれません。だから、スッとその世界に入っていけて、最初は面白いのです。でも、変化する自然や動物がない世界で情緒的な感覚が育つのでしょうか? 人は動物と同じように、変わっていて当たりまえ。変わらなければ人じゃないんです。

人間関係での役割は本来の自分ではない

安定して変わらない存在として会社やメタバースで「役割を演じ」続けると、本来の自分を見失しなう気がします。空調の効いた空間で24時間照明に照らされて仕事を続けると、頭がおかしくなるのも分かる気がします。

「こう演じなければならない」が高じると、あたかも係長である自分が本当の自分のような気がしてきます。しかし、本来は親に育てられ、大学にも行き、社会や人のために仕事をしようと希望をもって生きてきた自然の一部の存在のはずです。今の人は「役割を演じる」という人間関係のせいで生きる目的を見失っているように感じるのは、私だけではないと思います。社会的肩書きや役割で生きるのではなく、自然や人類や社会のために生命をつなぐという目的を忘れてはいけません。簡単に生命を断ってはいけないのです。

サポーター

福田正文
福田正文
1955年、羊年の山羊座生まれ。
2017年、大阪でコーヒー焙煎卸会社を経営。現在はマンションに建て替えて「悠々自適になる」つもりが、そうでもない状況。
千葉市在住。千葉ではパソコンメンテとWEBサイト制作会社を経営。
趣味はパソコンの組立&再生、ピアノとギターの演奏、読書。

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