インタビュー

患者さんに聞く

限りある命だからこそ、悔いのない人生を楽しみたい

田中麻美子

田中麻美子さん

兵庫県出身。
青年海外協力隊で、在フィリピンインドシナ難民センターに2年在勤。
外資系ブランド日本法人での事業立上や再編など、さまざまなプロジェクトに携わり、2012年から2017年末までビクトリノックスジャパン株式会社代表取締役。
2018 年、スイス機械式時計ブランドOrisの日本法人を立ち上げ。
現在、オリスジャパン株式会社代表取締役、在日スイス商工会議所役員・日本プレイワーク協会理事。大学や自治体などで講演や執筆なども手がける。
2014年に乳がん発症するも、働きながら治療。

初めて「死」を意識したが、涙が出たのは1回だけ

〈ら・し・く〉
がん発症はいつでしたか? どのような治療をされましたか?
田中
2014年春、しこりの自覚症状があり、クリニックで診察してもらいました。最初はすだちくらいだったのが、みかんの大きさくらいに成長して熱があったので心配でした。診察の結果は、ルミナールB型(HER2陽性)でステージ3。治療は術前に抗がん剤とハーセプチン、乳房全摘手術(同時再建)でした。リンパ節に転移もあったので、腋窩リンパ節郭清も受けました。

〈ら・し・く〉
そのとき、振り返るとどのような気持ちになられましたか? そして、「気持ちの整理が徐々にできたなあ」と感じたのはいつころでしたか?
田中
最初はそれほどショックでなかったのですが、腫瘍マーカーで値がかなり高く「転移している可能性がある」と伝えられ、初めて「死」を意識しました。和服を着て遺影用の写真を撮影したくらい、覚悟しました。その後、治療計画の話のときに「全摘」の話が出てきて涙が出ましたが、泣いたのはこのときだけでしたね。そのころは仕事が多忙を極めていたため、ずっと気が張っていたのかもしれません。

副作用がつらくても、「仕事」への執念がモチベーションに

〈ら・し・く〉
治療中、仕事はどうされましたか?
田中
続けていました。会社の代表として、また、ちょうど業界あげて日本・スイス国交樹立記念の大きなイベントを開催する実行委員だったので続けざるを得なかったのですが、続けていてよかったです。副作用がつらくても、「仕事をやらねば」というモチベーションになっていました。思いのほか、お金もかかりましたしね。

〈ら・し・く〉
仕事のペースや量をセーブされたり、コントロールされたこともありましたか?
田中
仕事自体をセーブはできなかったですが、調子の悪いときはお休みして何とかしのいでいました。会社の代表だったこともあり、スケジュールの調整がしやすかったのはラッキーでした。あまりに体調がすぐれないときは、会社と病院の間をタクシーで行き来していました。

〈ら・し・く〉
仕事を続けるにあたり、どんなふうに副作用とつきあっていかれましたか?
田中
抗がん剤(ドセタキセル)が合わず全身の骨や関節が激痛で、のたうち回るくらい酷かったです。松葉杖を買って通勤していましたが、電車に乗ることもできないくらいで、とうとう車いすをレンタルしました。ニューヨークへの出張も車いすで強行していました。

〈ら・し・く〉
どこまで自分の病気のことを伝えるかって難しいですよね。職場や取引先には、どんなタイミングで、どなたにお伝えになったのでしょうか。

田中
2014年の夏、がん発症が判明して治療方法が確定したとき、会社の社員には伝えました。抗がん剤の副作用で髪の毛など見た目も変わってくるし、逆に心配されるかと思ったので。ただ、取引先や関係先には伝えていませんでした。代表の体調について憶測や心配をかけてはいけないと思いましたし、取引や会社の信用の問題につながると思って社員には「社外秘で」と頼みました。社員の最初の反応は「えっ」という感じで、みんな固まっていました。

〈ら・し・く〉
仕事を続ける上で、困ったことや困難を感じたことがあったら教えてください。

田中
一番困ったのはとにかく副作用です。身体のコントロールが効かなくなっていくのがつらかったです。仕事を続けていたから、うつにはならずに済んだのかもしれません。

〈ら・し・く〉
そんな困難があったとき、どういうふうに解決されたり乗り越えたりされたのでしょう。

田中
仕事や大きなプロジェクトを「とにかく達成しなければ」と気を張っていたので、乗り越えられたのかもしれません。抗がん剤の副作用がひどく仕事にも影響しそうだと思ったので、ドセタキセルを中止してもらいハーセプチンに絞ってもらいました。ドセタキセルの中止は、自己責任と納得の上での判断でした。

悩んでも解決できないことはある。だから、悩み損はしたくない

〈ら・し・く〉
家族や友人、周囲の方、専門家などとは、どんなふうに関わり合っておられたでしょうか? 同じ患者の仲間と気持ちを共有されたことなどがあったら、お聞かせください。
田中
そうですね、会社の社員の皆さんには「病気だ」と伝えていたせいで、ずいぶんと助けてもらいました。友だちや親せきにはブログを書いて自分の症状や気持ちを伝えていましたので、気持ちがつながった感じがあったかもしれません。

〈ら・し・く〉
「助かった」と感じることができたサポートはありましたか?
田中
いつもお世話になっていた整体の先生には、漢方を勧めてもらいました。これでずいぶん副作用が軽減されたように思います。「あればよかった」と思うのは、家族への情報提供ですかね。主治医や医療従事者から自分だけ情報提供されても、どうしても冷静でなかったり記憶できなかったりするので、家族向けの情報提供の場があったらよかったと思います。

〈ら・し・く〉
がん発症したあと、気持ちや生き方など、変化はありましたか?
田中
変わったことですか…。いくつかありますが、まずは薬のことに関心がわきましたね。また、身体にいいことを積極的に取り入れようとしました。浴槽に重曹を入れて入浴するとデトックスにいいと言われて、試してみたりしました。また、「死ぬ」ということを意識しました。「いつ死んでもいい」ように、それまで後悔のないよう生きようと強く思うようになりました。

〈ら・し・く〉
最後の質問になります。今、治療されていて、仕事や日々の生活に悩まれている方にメッセージがあればお願いします。
田中
「仕事を続けるのがつらい」と感じることもあるかと思いますが、がん治療はお金がかかります。体力が弱っていると、電車に乗れずタクシー利用することも増えると思いますし、思いもよらないことに出費がかさみます。ですから、なんとか仕事はやめないでほしいですね。私は入っていなくて後悔しましたが、「がん保険」には入っておいた方がいいと思いました。そして、悩んでも解決できないことはあるし、悩み損はやめようと思いました。限りある命だからこそ、楽しく生きたいと思いました。

インタビュー掲載日:2020年4月8日


ありがとうございました。仕事を第一線で続けてこられた田中さん。
社員には伝えたけれど、取引先などには社外秘としていたなど、出張などもあるなか、ご苦労もあったと思います。
「死」を意識したため、それまで後悔のない生き方をしようという言葉が印象的でした。少しでも悩まれている方の参考になれば幸いです。