自分らしく

東京ローカル(2)

テレビ最全盛時代のマーケティング対象世代

それぞれの地元に誇りを持っている方々は、そのエリアの「ローカル」としてワタクシはリスペクトしています。

「東京/TOKYO」はおしゃれで洗練された街とイメージされがちですが、すべてがそうではないのです。東京は日本全国の他の街同様、ただの街であり、そこで暮らす人たちは決してキラキラとした企業に勤務しているわけでもなく、普通の生活をしているエリアであることを改めてお伝えしたく、この文章を書いています。

ただ、そのなかで過ごし人口も多いワタクシたちの世代(昭和42年生)には、「夕焼けニャンニャン」「オールナイトフジ」といったテレビ最全盛時代、俗に言うマーケティングの対象年齢層として広告・マーケティングがついて回っていました。

渋谷センター街ではチーマーと言う言葉が出る少し前、原チャリで、外苑西通りを駆け抜け、表参道の『EIKO』でリーバイスの501を買い、原宿のバックドロップでスタジャンを買い、ストーミーでスケボーを買い、渋谷にはビームスができて、自由が丘の『TOPDOG』でインターナショナル学校の女子とデートをし電車でサーフィンに行っていました。

『Candy Candy』『ラスカラ』『ナバーナ』『TOKIO』『新宿の東亜会館』などで、ガラムを吸いながら友だちとたむろしてた高校時代を経て、そのまま付属の大学へ進学し、今の時代では完全にアウトな生活を送り、日本全体が「バブル」と呼ばれる幻想のなかで時代が過ぎていきました。また、「語学留学」などという適当な留学制度ができて、その初期のタイミングで1年間大学を休学してアメリカに短期留学をするなど、まったくもって不謹慎な人生を過ごしてきたのです。

「東京ローカル」としての誇りは子どもたちにも

東京の商店街の町中華や蕎麦屋の息子だった私の友人たちで、今となっては”ただのおっさん”になった連中も”出身地ガチャ” で、たまたま東京に産まれたのですが、若い時代は否が応にもそのような生活を送ってきたわけです。その子どもたち、つまり東京のゆとり世代・Z世代といった今の若者を象徴する世代、ファッションや流行を先導する世代は、昭和の親世代の生活を目の当たりに体験し成長しています。

私たち世代が独立した後、住んでいるエリアは子どもたち少なくなり、私たち親世代ばかり住む老齢化した街となりました。その後、私たちの親世代の方々が亡くなり、相続がされない家や土地が多く発生しました。それは悪いことばかりではなく、昭和のスペックの大きさの1軒の家の土地が3軒〜5軒の建売の戸建てとなっています。都営住宅が大型のマンションとなり、多くの子育て世代が住むようになったのです。一旦は減った小学校のクラス数も、どんどん増えて、昭和世代のクラス数に近付いてきています。そしてその子どもたちは新しい「東京ローカル」になることかと思います。

東京に住んでいるからこそ、普段の生活で体験する経験、自分が望んでいなくとも最新の情報や関わる事由が積み重なっていく…それが「東京ローカル」の宿命なのかと感じざるを得ません。

「TOKYO LOCAL」という人種を定義しきることはできませんが、ワタクシは東京=TOKYOのローカルとしての誇りをもっていますし、我々の子どもたちの世代にも同じ気持ちで暮らしてほしいと思っています。

サポーター

ニシムダ ミノル
ニシムダ ミノル
大手広告代理店を経て、1990年代にイタリアラグジュアリーブランドでブランドビジネスの基礎を学び、ブランドイメージコントロールマネージャーとしてVMDと店舗開発を手がける。

その後、輸入商社でファッション/レザーグッズ・ウォッチ・フラグランス・シガー・カトラリーなど幅の広い商材を経験。2006年、株式会社グランドスウェルを設立。物販のみならず飲食ビジネスにも携わり、現在はOFFICE NISHIMUDAの代表を経て、2020年 新たに エスエイチアールフェニックス株式会社を設立。

2018年10月から〈がん〉の母の介護を行い、2019年5月に見送る。

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