自分らしく

空が一面に海に見えた日

目を上げれば、晴れ渡った雲一つない空が視界一杯に拡がり、その下にはやはり陽の光を浴びた真っ青な海が横たわっている。水平線の彼方、海と空の境目はその輝きのなかで溶け合いはっきりしない。空遠くに太陽光を銀色に反射させたジェット機が横切ってゆく、まるで遠ざかりゆく海上の船のように。

あなたは麗美を覚えていますか? 80年代半ば、ユーミン夫妻のバックアップでデビューした沖縄出身のシンガーソングライター。80年代のユーミンの傑作、『ノーサイド』『青春のリグレット』『残暑』はもともと麗美のために書かれた曲で、ユーミン版はその後のセルフカバーである。実は、麗美は今もRemediosという名前で音楽活動をしていて、映画音楽やCMで麗美時代の音楽性をさらに純化させたような歌声を聴かせている。

『空が一面に海に見えた日』は麗美自身のもので、以前より彼女にとっての沖縄返還を歌ったものとされてきた。歌詞では、幼い日の友人との別れの思い出が描かれるが、基地とあることから、出身地、沖縄が舞台であることは間違いない。これで5月が夏の日という、本土なら「え?」と思う表現も納得がいく。だが、沖縄の5月は梅雨の真っ只中、実はきれいに晴れあがる日は少ない。実際、返還の日、1972年5月15日も一日雨模様の日だったらしい。にもかかわらず、麗美の5月は晴れ渡っている。なぜ?

沖縄には今でもフィリピーノが多いが、ミュージシャンだった麗美の父親もフィリピーノ(母親は日本人)で、1960年代に沖縄に在住していた彼らの大部分がそうであるように、米軍基地と関係をもって沖縄で生活していたのだろう。英語が堪能な麗美だが、多くのフィリピーノの子どもたちと一緒にインターナショナルスクールに通っていたからだろう。だが沖縄返還が近付くにつれ、計画的な米軍基地からの雇止めのために、帰国やアメリカ行きを余儀なくされるフィリピーノとその家庭も数多かった。想像でしかないけれど、麗美の幼く幸福な日々はこうした幼馴染との別れで終わりをつげたのだろうか? 

五月晴れとは本来、旧暦の5月(=6月)梅雨の最中にしばしば覗く初夏の晴れた日の美しさを讃えた言葉だった。沖縄でも梅雨の合間の晴天は、やはり格別なものがあると聞く。きっと、その日は、空が一面海のようだった、これからへの可能性に満ちた深い明るさと、もう取り戻せないという哀しさを同時に感じさせるものでなくてはならなかった。とても個人的な事柄だが、そこにも沖縄の歴史の現実が覗く。

▼空が一面に海に見えた日
https://www.youtube.com/watch?v=_BRXLj_vOts

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坂下健司
坂下健司
いよいよ還暦、そして定年。「この機会に生き方をガラッと変えられないか?」などとずっと考えています。ごく「フツー」の冴えないサラリーマン生活だったわりには、なぜかちょっとした冒険にもいろいろとした巡り合えたし、ここまで生きてこられた恩を自分以外に返さなきゃなぁ、と思う今日このころ。

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