愛すべき古代インド人

私はインドには行ったことがありません。ですが、インド関連の本を読むのは、仏教に興味があるばかりではなく、インド人のお話しが面白いからです。とはいえ、仏教などの解説本では教義の内容は分かるのですが眠くなります。

一方、経典の訳本などは「お話し」なので、小説のように面白くて飽きないのです。お釈迦様の前世の話(本生譚/ジャータカ)などは特に面白いので、時間が経つのも忘れるほどです。読んでいて感じるのは、古代のインド人は大雑把で、どえりゃあ大きな数が好きだということ。めまいがするぐらい巨大な数字がこれでもかと出てきて驚きの連続です(笑)。

中国人は歴史を小まめに記録しますが、インド人はやりません。あのお釈迦様の生誕や死没ですら正確ではないのです。だいたい数百年前に生まれた誰かが何かをやったらしい。そんな具合です。

話のなかに出てくる数字はというと、56億7千万年後に人類救済に弥勒菩薩が現れるとか、梵天の一日をカルパと呼ぶが、カルパは大ユガという宇宙期間(432万年)の一千倍だとか、大袈裟すぎてウソっぽいのですが、インド人が大真面目に語るのですから実に本当っぽいのです。

古代インド人はめまいがするほどの巨大な時間や空間を想像することで、永遠に続く輪廻に「諦め」を求めていたのかもしれません。輪廻を通して善行(功徳)を何万年何億年積んだとしても解脱(成仏)にはほど遠いのですから、日記などの記録を書いても仕様がないというような諦めがあるように感じます。

インド人が「零」を発見した

今日では数列や金額などを表示する場合にアラビア数字を使い、インド由来と言われる記数法で表記するのが普通ですが、日本ではアラビア数字を使った記数法が使われ出してまだ百数十年ほどしか経ってないのです。

口語で数を表現し計算することと、数を記録することは全然違います。計算にソロバンのようなものを使うことは古くからあったようですが、その商や積などを表記することは難しかったのです。記録数字と計算数字は違うということです。

たとえば、5326という数字を日本では「五千三百二十六」と書けばそれで伝わります。もし百代がない場合は「五千二十六」と日本語では書けます。ところがインド由来のアラビア数字でそれを記載する場合は、5026と百の桁に「0」を入れる必要が出てきます。ただ、ここでの0はゼロ(零)という概念の「数字」ではなく、桁を表すだけの「記号」です。この記号としての「0」は紀元前500年の古代バビロニアで既に使われていたらしいことは現在ではわかっています(もっとも、古代バビロニアでは楔形文字の数記号でした)。

こういう位取りの記数法は、まさしく中国や日本のソロバンなどによる数の計算と同じ理屈で簡単に理解できます。しかし紙に書く(記録する)となると、どうしても桁を表す0(ゼロ)という記号の必要が出てくるので、0(ゼロ)が誕生したのだと考えられます。だから、インド由来の十進法による便利な記数法が広まって、計算して表記(記録)もできる筆算がソロバンに取って代わってあっという間に普及したというわけです。

一方、記号ではなく数字としての0(ゼロ)という意味で、最初に零を概念化したのはインド人です。7世紀(ここでも正確な年代をインド人は記録せず)にグラーマグプタというインド人数学者が書いた書物に、「a×0=0,a+0=0,a-0=0」という数字としての0(ゼロ)を使った演算の定義が書かれています。これが「零の発見」と呼べるのではないでしょうか。この辺りの詳しいことは、故・吉田洋一先生の『零の発見~数学の生い立ち~』に詳しく書かれていますので、興味のある方は是非お読みください。

古代インド人は途方もなく巨大な数から無に繋がる極小の世界まで、めまいを感じるものがお好きなようです。夢があるようでないような愛すべき人たちですね。

仏教の「空」は「0」(ゼロ)に通ずるのか?

前回「般若心経」の意味を私なりに説明しました。仏教の中心である「空とは世界には実体がなく現象である」という点と「すべての存在は移り変わる」という無常の世界であるという2点が書かれていました。

「実体がない」がイコール零(ゼロ)ではないと思いますが、「実体のない世界」は限りなく零(ゼロ)だと感じるのは私だけではないと思います。また、仏教では成仏(解脱)するために果てしない功徳という善行の積み重ねが必要だと説かれております。それはまさしく「空」へ収束していく果てしないプロセスのことではないでしょうか。言い換えると、それを数学で無限小数と呼ぶ、1から0へと無限に続く小数世界の収束作用であるといえないでしょうか。ですが、上記の数学の吉田洋一先生はそういうふうに短絡に考えることは禁物だと著書のなかで戒めておられます。

ただ、無限小数の世界で0.000000000∞と続くゼロの頭が、無数に並ぶ仏の曼荼羅であるかのように感じてしまう私は多少なりともインド人化しているのかもしれません。そういえば最近、毎日のように山食のカレーを食べたくなるのです(笑)。