彼と恋人同士のときに「次に生まれてくるときも一緒になろうね」とか「前世からの因縁だよね」なあんて歯の浮くような言葉を使った記憶が誰しもあるかもしれません。僕たちって、前世とか来世とかを普通に前提にして過ごしてますよね。僕は小学三年生のある夜から、「これって本当なのか」を考えて不眠症になりました。

輪廻って、いったいどういうことなんだろう?

日本人なら「輪廻」って言葉はよく聞くし、誰しも小さいころから漠然と心のなかにあって、何となく分かりますよね。その考え方は仏教独自のものではなくて、洋の東西を問わず「転生」という名でいろんな地域で、宗教的(哲学的)に考えられた概念なんです。

仏教以前の古代インドでは、ジャイナ教やシーク教、ヒンドゥー教、バラモン教でも基本概念でした。輪廻という転生を繰り返しても、生まれ変わる階層(身分)は同じだというカースト制度の基盤ともなっていました。そういうインドで、お迦様が「輪廻という最大の苦を乗り越えるための教えなんですよ」とのキャッチフレーズで布教を始めたのが仏教なのです。

ポイントを貯めないと成仏できない

仏教では、人間の精神は不滅で、肉体は滅びてもまた別の生き物として再生されるというのが「輪廻」の考え方です。具体的には、「良い行い(善業)をした者は人間に生まれ変わることができるし、悪い行い(悪業)をした者は動物や昆虫に生まれ変わる。だから良いことをしよう」といった考え方で、「善い行い」のことを「功徳」と呼びます。さらに功徳は輪廻を超えて獲得でき、遠い来世で覚りを開くことができる(成仏できる)、今世で功徳が貯まらなくても、来世やまたその次の来世で貯めていこうという「覚りへの道」なのです。

しかし、この「永遠に再生され続ける」って非常に苦しいことですよね。だから解脱(覚り)の境地に達すると輪廻(転生)から抜けられるという発想が生まれたのは必然の結果だったのかもしれません。

仏教は「輪廻からの脱出法」すなわち「成仏する」というHow To(教え)なのです。転生を繰り返す(苦)から逃れ、ある意味、永遠の死(涅槃)を迎えるための究極の方法なのです。

前述のように良い行いをすることを「功徳」といいますが、現代風に書くと「功徳」は「善行ポイント」です。何度もの「前世」「今世」「来世」と続く輪廻のなかでこの善行ポイントを貯めていくと、いずれは「上がり」(解脱=覚り)がやってくるよ――という教えなのです。

ポイントは来世へ持ち越せるのか

ここで疑問が湧きます。「肉体が滅び、輪廻を通じて新しい人生になった場合、前世のポイントは引き継がれるのか?」「古い自分と新しい自分はどうやって紐付けされるのか?」という疑問です。

まず「同一性」を考えましょう。たとえば、石ころ。河原のある石は一万年前には山の上の岩石の一部だったかもしれません。逆に一万年後は、河口の砂粒になっているかもしれません。一万年前と一秒前、一秒後と一万年後の差異を僕は説明できません。人間で言えば、40年後の奥さんはシワクチャ婆さんで、40年前はピチピチOL、さらにその20年前は母親の体内で卵子の一部だったはずです。果たして、奥さんの同一性を信じられるのか?

分析哲学なんていうものがあって、そこでは「自分」の存在すら証明できない。去年の僕と今年の僕の同一性は「そう思う」という自己意識だけで、何も確かなことは言えないらしいです(笑)。ましてや、来世の自分は本当に死ぬ前の自分が積んだ功徳(ポイント)を保持できているのか? そんな疑問は何をか言わんやです。

そこで、僕は「何億年もの輪廻転生を通じて、ポイントをためていく主体の同一性を担保するものは何なのか?」といろんな仏教の本を読みました。大乗仏教が合理的に答えを出してくれました。「唯識」という理論です。人間の「意識と無意識」は「八層」になっていて、一番深い層であるアーラヤ識という無意識層が輪廻を越えて永遠に個人の意識を受け継ついでいく部分であり、これこそが個人の同一性を担保しているのです。そして、当然そこにポイントが蓄積されるので修行が何億年に渡っても大丈夫なんです。

実際のところ、「同一性」などを考え始めると、因果論が成り立たちませんよね。仏教は本来、因果論をバックボーンとして世界を認識するので、まず因果論を認め(同一性を信じるという立場で)、「戒」や「菩薩戒」と呼ばれるルールのもとで「良いことをすれば成仏できる」と信じて覚りをめざす。簡単に言えば、「考えてもわからないことは一旦おいておき、正しく生きよう」という楽観的な解脱への道なんですね。仏教はキリスト教のようなドグマではないわけです。輪廻や解脱を信じるか信じないかは、自分次第なんです。自由に選べる選択肢なんです。