自分らしく

東京ローカル(1)

ローカリズムについて

東京生まれとして、常に気になることがあります。ワタクシは東京生まれ東京育ちですが、住民全員が洗練された”東京モン・都会モン”であるわけではないのです。今回は、「東京でのローカリズム」について皆さまのご意見を伺いたく、不得手ながら文章を書いています。

ワタクシは東京の大田区で生まれ、そのまま現在まで暮らしています。年齢からサーフィンが流行った第二世代ということもあり、40年続けています。高校生のころは電車でサーフィンに行く、いわゆる「電車サーファー」でした。土曜日の夜に『オールナイトフジ』を観て、日曜日の朝3000円を握り締めて始発でサーフィンに行く高校生でした(当時はまだ土曜日の通学があったのです)。

サーフィンの世界には「ローカル/ローカリズム」という独特の世界観があり、それは全世界共通の意識感です。サーフィンでいう「ローカル」というものは、サーフポイントの目の前、もしくは近隣に住むサーファーたちのことをいいます。そして、その「ローカルサーファー」たちは日々サーフィンを楽しみ、人によってはより研鑽しプロを目指したりしています。そして「ローカルサーファー」は、そのサーフポイントの “THE DAY” たる波を乗るべく、日々サーフィンを楽しんでいます。故に、それぞれのサーフポイントで「ローカルサーファー」たちはサーフポイントのローカルルールを構築して、大切なサーフポイントとその波を守っています。

昭和のガキであったワタクシはポータブルのゲームなどもない時代、近所の公園や神社、空き地、池で日が暮れるまで遊び呆けていたわけですが、その遊び場は私たちの縄張りでした。それはまさしくサーフィンでいうところの「ローカルポイント」と一緒です。そこには自然と、やってはいけないことや独自のルールがあり、新参者や隣町のキッズたちが侵入してくると、喧嘩になったり喧嘩をした後に仲良くなったり、逆に自分たちが隣町のローカルエリアに入って行き同じようなことになり、どんどん自分たちのエリアが広がり仲間が増えていきました。

東京というと都会として見られますが、私が住むエリアは東急池上線といういわゆる私鉄沿線の商店街のある住宅街です。そこには町中華や蕎麦屋があり、日本全国のさまざまな街と一緒の風景が広がります。そして地元で育った子どもたちがその街の大人になり、彼らの子どもたちが同じく育ち地元の大人になっていく生活です。そこにはいまだに自身の街で育ち、そこから外の世界へは出ていかない住人も多くいます。彼ら表参道や六本木、西麻布などにはまったく興味を示さず人生を過ごしています。
 
一方で、中目黒や表参道、西麻布、六本木などのエリアには、日本全国から別の意味の「東京」を目指して来た人たちが渦を巻いています。三軒茶屋・学芸大学など、地方から出てくる若い世代が住みやすい街もあり、豊洲・月島・芝浦などのタワーマンションを目指して来る方々もいたりします。ワタクシの長女は中目黒に住んでいますが、「中目黒は、芸能人やその業界の人たちが住む街となってしまった」と言っています。

「江戸っ子」でなく、「東京ローカル」

数年前、知人から自由が丘のとある会にお誘いをいただき参加しました。会に出てみて説明を伺うと、「自由が丘を盛り上げる会」とのことでした。参加して主催者にお招きの御礼をお伝えしましたが、主催者さんは目黒区のご出身ではないとのことで、ビックリしました。しかし、それはそれでその方のお子さんたちは生粋の「自由が丘ローカル」になるということで間違いありません。

そういうワタクシも苗字が「西牟田」であり、コテコテの九州の苗字です。そのへんのことを掘り下げると文字数が足りなくなるので割愛しますが、曾祖父の時代が幕末で、維新の後に警察署を任されて祖父の代に職業軍人(今でいう自衛隊)として大田区久ヶ原に居を構えたということです。一般的には「三代住めば、“江戸っ子”」と言われますから、三代目のワタクシはなんとか「江戸っ子」を語れるようになりました。

ただ、自分の認識としては「江戸っ子」とは昔の江戸城から東のエリアに住む方々(銀座・日本橋 〜 上野・浅草あたり)だと勝手に認識しています。ワタクシ自身が住んでいる東京の城南地区(世田谷・目黒・品川・港区・大田区あたり)は、企業や官庁などで働き昭和の時代を担った人たち(祖父の代くらい)が住み始めた「東京ローカル」だと識別しています。

神奈川県でありながら横浜の方々は、「出身地は?」との問いに「神奈川県です」と答えず「横浜です」と回答します。神戸の方々も「兵庫県です」と答えずに「神戸です」と回答します。金沢の方は、「北陸三県」は自身の領地として認識しているようで、住んでいる場所は県名ではなく「金沢です」と表現します。当然ながら、京都・大阪などは、より強く自身のアイデンティティは、その土地に帰属しています。

※後日掲載する『東京ローカル(2)』に続きます。

サポーター

ニシムダ ミノル
ニシムダ ミノル
大手広告代理店を経て、1990年代にイタリアラグジュアリーブランドでブランドビジネスの基礎を学び、ブランドイメージコントロールマネージャーとしてVMDと店舗開発を手がける。

その後、輸入商社でファッション/レザーグッズ・ウォッチ・フラグランス・シガー・カトラリーなど幅の広い商材を経験。2006年、株式会社グランドスウェルを設立。物販のみならず飲食ビジネスにも携わり、現在はOFFICE NISHIMUDAの代表を経て、2020年 新たに エスエイチアールフェニックス株式会社を設立。

2018年10月から〈がん〉の母の介護を行い、2019年5月に見送る。

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