インタビュー

患者さんに聞く

トータルサポートができるホームドクターがいれば、
治療後も心強い存在になるのでは

其田真理

其田真理さん

1982年、慶應義塾大学経済学部卒業後、大蔵省(当時)に入省。
国際金融局(当時)、日本輸出入銀行海外投資研究所(在ワシントン。当時)、理財局国有財産業務課長、国家公務員共済組合連合会総務部長。
2014年、特定個人情報保護委員会事務局長。
2016~2020年、個人情報保護委員会事務局長として個人情報の保護のための制度構築に携わる。

新聞記者の真似をして、廊下から会議の様子を探ったことも…

〈ら・し・く〉
まず、お仕事についてお聞きします。
大蔵省に入省された動機とか、お仕事の内容についてお話しいただけますか。
其田
ゼミの同級生が「面接に行った方がいいよ」というので、いくつか官庁訪問しました。当時は民間の採用も厳しかったので、どこでも最初に内定が出たところに行くつもりでした。大蔵省から最初に内定をもらいました。

〈ら・し・く〉
それぞれ全部大変なお仕事だと思いますが、どの時期が一番きつかったですか? 
また、特に印象深かった出来事やエピソードがあれば、お教えください。
其田
苦労はそれぞれの時期にありましたし、順位づけが難しいのですが、記憶に残るエピソードで言うと、国会関係の会議で上司に同行したときのことでしょうか。上司だけが会議室に入り、自分が「部下が資料をまとめていて、もうすぐ持って来るはずです』と発言したら、「資料持参でなかに入ってくるように」と指示がありました。ところが、ドアの外で待機する私にはなかの会話が全く聞こえず、困っていました。まわりを見渡すと数人の新聞記者が通風口に耳をつけて室内の様子を覗っていたので、それを真似て一緒に廊下の床に座って聞いていたところ、気づいたら自分ひとりが廊下に取り残されていた…という思い出があります(笑)。

また、当時3歳の息子と土曜出勤中、息子が隣の課の椅子を全部廊下に出して、並べて遊んでいたことがありました。誰の椅子かわからないので、適当に戻しておきましたが、今だったら大問題になりそうですね。

家族のサポートが大いに助かりました

〈ら・し・く〉
「がん発症」はいつころで、どのような治療をどれくらいの期間受けられたでしょうか?
其田
5年前にしこりを自分で発見し病院に行ったところ、「乳がん」のトリプルポジティブでした。夏休みに抗がん剤と分子標的治療薬を受け始め、その後は3週間おきに6回の通院、「正月休み中に手術」「放射線治療を50日(毎日)」「分子標的治療薬治療で6回通院」という流れで治療を行いました。全体を通すと、14か月の期間を要しています。

〈ら・し・く〉
最初に「がん」と診断されたとき、どのような気持ちになりましたか? 
また、診断されてから、治療開始までの時間や、
その後治療を始めたときで気持ちの変化はありましたか?
其田
身体はもともと丈夫な方ではなく不調なことが多かったのですが、「がん」は想定外で、疑いを告げられたときはともかく衝撃を受けました。主治医から聞いた長期にわたる治療計画にも、気が遠くなりました。

その後、標準治療ガイドラインの解説本を買って、ひととおり治療法についての情報を仕入れました。そこで「なるほど長くかかりそうだ」との覚悟ができて検査結果を聞いたので、そのときは医師の治療計画についもて落ち着いて聞くことができました。病気のときにやたらに本など読むと「よけい心配になってよくない」といわれることがありますが、「乳がん」の治療は複雑で長くかかる場合が多いので、知識があるとそんなに心配しなくても大丈夫だと思えるような気がします。

また、薬剤担当の腫瘍内科医から勧められた新薬の治験にも参加するなど、前向きに治療に取り組む気になっていました。治験は50%が新薬、50%が既存薬の可能性でしたが、抽選の結果、運良く副作用の少ない新薬が当たりました。

〈ら・し・く〉
家族や友人など、どなたかに相談したり気持ちのシェアなどをされましたか?
其田
家族が全面的にサポートしてくれたので、気持ちの面でもとても助かりました。診療計画を一緒に勉強し、医師とも話してくれて心強く感じましたし、抗がん剤の治療の初期のころは病院につきあってくれました。

職場では親しい友人に話をして公私共に助けてもらいました。急に体調不良でタクシーで帰らなければいけないときに、荷物をもって一緒にタクシーをつかまえてくれた日のことは忘れられません。

病院側の配慮もあって、治療と仕事の両立が実現

〈ら・し・く〉
治療中も仕事を続けられたようですね。
責任も重い立場で激務をこなされ、治療と仕事の両立が厳しかったのではないでしょうか。
何か工夫された点があれば、お聞かせください。
其田
抗がん剤治療の翌日以外は、普通に仕事をしていました。治療の翌日はだるくてきつかったですね。放射線治療に関しては、私には散歩の後の心地よい疲れのように感じられ、かえってよく眠れました。ただ、50日間、毎日、通院しなくてはならないので、毎朝8時に予約を入れ、病院の皆さんがテキパキと手続きを進めてくれたので助かりました。

手術の日程に関しても、医師が仕事のことを理解してくれて影響が少なくて済むように「1月3日入院、4日手術」という日程を組んでくれました。年始だけのお休みだったので、職場の人たちは海外旅行にでも出かけていたと思っていたようです(笑)。また、職場の近くの病院を選んだことは「働きながらの通院」にたいへん助かりました。

〈ら・し・く〉
治療中は副作用などもあったかと思いますが、
そのようなときは仕事のペースや量をコントロールされましたか?
困ったことなども併せてお聞かせください。
其田
術前の抗がん剤は副作用が比較的小さいものでしたが、翌日の倦怠感は強烈でした。ですから、初回の治療を夏休みに開始できてよかったと思います。当日はさほど影響がなく朝一番で点滴を打ってから、仕事に行くことができました。この日のお昼はむしろ高カロリーで好きなものをたくさん食べました。翌日の倦怠感はこれまでに経験したことがないものでしたが、2回目の点滴の翌日はお休み、3回目は半日、4回目は1時間の休暇をとるなど徐々に慣れていきました。

ただ、抗がん剤治療の終盤は血小板の低下でふとした拍子に鼻から出血して止まらなくなることが2回ありました。夜中に救急病院に行って止血してもらいましたが、心配でしたね。とはいえ、朝や日中には起きなかったのは幸いでした。今はこの副作用を軽減する薬剤もあるようなので安心ですね。また、若干味覚障害もありましたが、辛いものを控える程度のものでした。

〈ら・し・く〉
自分の病気のことは職場や仕事の関係者にお伝えになりましたか?
其田
職場ではごく親しい友人を除き、知らせませんでした。どこまで伝えるかは影響度によっての判断かと思います。子どもの中学受験や家族の病気、親の介護などライフステージで起こり得るさまざまなイベントと同様かと考えました。「〈がん〉だから特別」ということではないと思いますが、病気の特性や仕事との両立が可能であることなど、社会にもっと広く発信していくべきだとは思います。

職場OBの一言を思い出し、仕事を続ける気持ちに

〈ら・し・く〉
周囲からサポートを受けて、
「これは助かった」とか「あったらよいな」といった点はありましたか?
其田
助かったことは主治医(女医)からのインナーウェアやウィッグについてのアドバイスでした。病気が判明してから、いろいろ調べた上で気に入ったものをすぐに用意し、気分的に万全な感じで取り組めました。

「あったらいいな」と思ったのは、ひととおりの治療が終わった後の医療機関でのサポート体制ですね。私の場合は、術後一年近く経ってから手術した側の腕が痛くなって動かせなくなり、傷跡も傷みました。

病院では整形外科に回されました。治療に伴う副作用はさまざまでその人のもともとの体質によっても大きく違うと思いますし、外科医が他の科に及ぶ細かな相談に対応するのは難しく、薬を処方することで対処することにならざるを得ないかもしれません。ネットで調べてみると乳がん患者で同じ症状に悩む人がたくさんいて、そうした患者さんに対応をしてくれる医院もあるようです。しかし、大変な混雑ぶり。今で言う「三密」ですね。

その後、私はネット情報にあったストレッチ(五十肩予防・治療とほぼ同じ)を毎日続け、時間はかかりましたが、よくなりました。治療後のトータルサポートのできるホームドクターのような人がいてくれると、心強い存在になるのではないかと思います。

〈ら・し・く〉
ここまでお聞きして、「仕事を辞めよう」と思ったことはなかったようですね。
その理由はなんでしょうか? 
其田
とりあえず、「辞めよう」とは思わず、「もし辛くなったら、そのときは辞めればいいか」と無責任に考えていました。思い出したのは、妊娠したときのことです。つわりがひどくて、しばしば休むことになり、「こんなことでは育児しながらの勤務は無理だ」と人事担当に話しました。すると「採用当時の担当に報告を」と言われ、すでにOBになっていた方でしたが、会いに行きました。そのときの言葉にとても励まされました。「今は迷惑かけていいから、その恩返しは将来、後輩のために返してほしい」と。これで仕事を続ける気持ちになれたこと思い出しました。

サポートの恩返しは、別の機会に社会還元という形で

〈ら・し・く〉
最後に、今、治療されていて、
仕事との両立や日々の生活に悩まれている方にメッセージがあればお願いします。
其田
先ほどの「先輩に言われた言葉」をそのまま送りたいと思います。あとで返せばいいんです。誰でもライフステージによって、100%でないときはたくさんあります。そもそも100%とか120%で働いてはいけないかもしれません。そこを補い合うということだと思います。協力やサポートはお願いできる人にお願いして、別の機会に自分が社会(今いる会社でなくてもよいと思います)に還元していこうと考えたらよいのではないでしょうか?


霞が関の第一線で働くという重責のなかで仕事を続けていく工夫や気持ちのもち方など、参考になるお話でした。日本のために昼夜働く公務員の大きな責任感、強い意志あってこその病気との向き合い方だと改めて感じ入りました。〈がん〉だから特別ではない、ライフステージのさまざまなイベントと重ねて考えることなど、自分を客観的に見つめることは、なかなかできるものではありません。「治療が終わった後の医療機関でのサポート体制」「ホームドクターがいたら心強い」というご意見に賛同される方、多いのではないでしょうか。