自分らしく
運動会の次の日
運動会の次の日
グラウンドは
ひとりぼっち
ならんだハードルを
緊張して跳んだ6コース
クラス全員でバトンをつないだ
テイクオーバーゾーン
声が枯れるまで
応援を送った団席
それらを区切った白線が
薄く静かに残っている
横切ってみれば
昨日の熱を受け止めた土が
ずくっ ずくっ と
音を立てる
中学校の運動会では「クラス全員リレー」という種目がポピュラーになっています。体育の授業で学んだリレーのバトンパスのノウハウを最大限に生かして、走る順番を工夫して、タイムを短縮しようと、クラスみんなで取り組む種目です。
練習を重ねるとどんどんタイムが短くなっていくし、作戦を変えるとレース展開も変わります。しかし、足の速さに自信のない生徒にとってはなかなか厳しいものもあります。クラス全員のタイムの足し算で競争するのであって、誰か一人のタイムが遅いことが問題ではないのですが、みんなの見ているなかで他のクラスに抜かされて順位を落としてしまう自分に責任を感じてしまうこともあります。
「みんなの足し算がどれくらい縮んでいくか、走るのが速い人も遅い人もみんなそれぞれで縮められるように工夫しなくちゃ」「他のクラスよりも3秒遅いというなら、30回のバトンパスのタイムを 0.1秒ずつ縮めればいいんじゃない?」など、体育の先生はみんなにエールを送ります。もしも、誰かが「自分がいない方がクラスのタイムが縮むから自分は出ない方がいい」なんて思うようだったら、「全員」リレーの意味がありません。
それでも時々、足がとても遅い生徒が「足を捻挫したので見学します」と休み、誰かが代わりに2回走ってタイムが縮む、などということが起こり、クラスも複雑な気持ちになります。次の時間もまた同じ生徒が「まだ足が治りません」と言って見学をし、このままでは運動会そのものにも出ないということになりかねません。
私が体育教師として勤務していた中学校で、そのような場面に出会っていたころに、ちょうど自分の子どもの通う地元の公立中学校の運動会に出かけて同じ「クラス全員リレー」を応援することになりました。2クラスしかないため赤白対抗の全員リレー。片方のクラスに特別支援学級のクラスのメンバーが加わっていました。その生徒は極端に走るのが苦手なようでした。バトンを受け取ると、そのときに半周近くついていた差をみるみる縮められて抜かされてしまい、さらに逆に半周も遅くなってしまいました。そのあとはじりじりと追いつこうとするものの、抜き返すことができずに終わりました。
私が驚いたのは、レースのあいだ中響いていた大きな声援と、特別支援学級の生徒が堂々と思いきり走っていた姿と、順位が決まった後にそれぞれのチームが喜び合う姿でした。体育の時間のバトン練習や、試しのゲーム、そして予行などで何度も同じ結果になったことが想像できます。でも、一人一人が自分の精一杯の力で走り、クラスメートに目一杯の声援を送ることをくり返してきたのだと思います。片方のチームにとても遅い人がいるから有利、不利というような空気は全く感じられませんでした。
この中学校のみんなはきっと、隣のクラスに勝つことだけではなく何か別のもっと大事なものに挑戦して勝とうとしていたのではないかと思いました。そのころはまだ「インクルーシブ」という言葉も広がってはいませんでしたが、見事に共に行事を楽しんでいた姿に心をうたれました。
一方、私の勤務していた中学校には特別な支援を必要とする生徒の学級はないため、公立中に比べればそのような友だちとふれ合うチャンスが少ないので、「それぞれの違いを認め、お互いを生かしていくことについて、肌で感じていくにはちょっと不利なのかもしれない」とも思いました。
当時、私のこの体験をストレートに中学生たちに伝えはしませんでした。でも、「いろいろなメンバーがいて当たり前で、偶然いっしょのクラスになったみんなでこの競技を創り上げていくことそのものを楽しめるはずなのだ」という事実をつかんだので、自信をもって全員で走ることの意味を話すことができるようになりました。
サポーター
- 詩人。
本業は体育大学・ダンス学科教員。大学生たちがダンスを好きになり、さらに自信をもって子どもたちにダンスを教えられる指導者として育つことを願い、教育と研究に取り組む。
プロフィール