自分らしく
60歳からの哲学
「人は考える葦だ」と言った偉い人がいたが、人はたいていそんなに考えてなどいやしない。考えるとは案外と骨の折れるものなのだ。交差点に立つとき、「なぜ、ここは直進するの?」「右に曲がらないのはなぜ?」、挙句に、「どうしてここにいるのだ?」…そんなことを考える時間はないし、状況も許さない。だから、惰性に任せて、過去のルーティンどおりに動いている方が効率も良いし、何より気楽なのだ。それでも自分も社会も何事もないかのように回っていく。
だが、そうしたやり過ごし方に甘んじられない人もいる。随分昔に出会った彼女もそんな人だった。ウエーブのかかった髪の長い、長身で育ちの良さを隠しきれない彼女を、周りの仲間は「なんて、きれいな人。でも、どうしてこんな所に」ともてはやしていた。
当時、僕らはその時分でさえ時代遅れだったマイナーな政治運動のなかにいた。そこで、僕は独りよがりの正義感に取り憑かれ、「何か行動を!」とやたら血気にはやっていた。一方で、同い年とは思えないほど落ち着いていた彼女は、何をするにも、その意味や結果を彼女なりに見出さないことには、足を一歩踏み出すことさえ躊躇される、そんな風に見えた。今となっては、彼女が伏し目がちにじっと事務机の上を眺めている姿しか思い出せない。僕はそんな彼女に気後れとじれったさと同情に近いものを同時に覚えていた。
ほどなく、彼女は運動を離れていった。運動のなかで問題が起き、その解決が彼女には納得ができなかったのだ。「仕方ないことさ」と僕は自分に言い聞かせ、そして彼女を忘れた。
それから20年以上を経たある日、書店で彼女の著作があるのにふと気づいた。本を手にとると、彼女はやはり考えることの意味を説いていた。あのとき、僕は意識的に考えることを止めたのだった。それに気づいたとき、拡がった苦い後味が今でも思い出される。その本はその後も廃版にされることもなく版を重ねているが、彼女自身は、がさつな思い込みのみがはびこる風潮に愛想を尽かしたかのように、早々とこの世を去ってしまった。でも、彼女のいないこの世界で、僕は今一度、きちんと考えたいと思っている、生きること、行動することの意味を。彼女の本の書名は『14歳からの哲学』という。
サポーター
- いよいよ還暦、そして定年。「この機会に生き方をガラッと変えられないか?」などとずっと考えています。ごく「フツー」の冴えないサラリーマン生活だったわりには、なぜかちょっとした冒険にもいろいろとした巡り合えたし、ここまで生きてこられた恩を自分以外に返さなきゃなぁ、と思う今日このころ。
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