自分らしく

夏になると思い出す

夏休み、妹に起こったこと

私にとって、季節感をもって思い出す夏は小、中学生までだったように思います。そのころは、毎年、父と母の生まれ故郷の香川県の高松に帰省しました。同じころ、いとこたちも東京から帰省して、大人も子どもも大人数でわいわい過ごした記憶があります。お昼に食べたうどんや素麺、すいかが目に浮かびます。

さて、私が夏というと一番思い出すのが、妹と海水浴場に行ったことです。私が中学2年生、妹が小学1年生ぐらいだったかと思います。そのころ、ふだん、二人だけで出かけることはほとんどないのですが、珍しく二人だけでバスに乗って、10分ぐらいの海水浴場に出かけました。年の離れた妹を連れている誇らしさと、守らなきゃという使命感と、いつになくわたしは緊張していました。

浜辺で私が水着の上から、着ていたシャツやジーンズを脱いでいる間に妹は「わーい」とばかりに海辺に走っていきました。ところが、あっという間に半べそで走って戻ってきて、「ころんでコンクリートの塊に頭をぶつけた、頭が痛い」というのです。別に出血などはありませんでしたが、さすがに頭をぶつけたといわれると、ちょっと怖くなり、すぐにまた、私は脱いだ服を着て、妹に着せて、確かタクシーで祖父母の家に帰りました。中学生、生まれて初めて運転手さんに行先を告げるタクシーでした。

緊張のあまり、祖父母の家に着いたときの父母や大人の反応は全く覚えていません。とにかく、二階に布団をひいて妹を寝かせました。濡らしたタオルで患部を冷やして、辛そうに寝ていました。私は時々、妹に「痛い?」と聞くと妹は「痛い、痛い」と。そういわれるとかわいそうで、本当に切なくなりました。そのときの切なく心細い気持ちはいまだに思い出せます。二階の部屋は妹が寝かされている布団と扇風機だけ、あとは広々とした空間が広がっていました。

妹をかけがえのない存在と認識した夏

結局、妹の怪我は別に何ということもなかったのですが、いまだに夏というと思い出す出来事です。この気持ちと重なるようなことが大人になってから何度かあったからかもしれません。

私の父は60代後半に血液系の〈がん〉で早くに亡くなったのですが、1年ほど東京の病院に入院していました。当時、母は毎日お弁当をもって横浜の自宅からお見舞いに通っていたのですが、父が亡くなる2~3か月前に疲れがたまっていたのか、ころんでひどい捻挫となり歩けなくなり、アパートの5階の自宅から下に降りられなくなったことがありました。

そしてそのころ、妹が〈乳がん〉と診断されたため私しか動くことができなくて、妹の手術前に病院に行き、二人で病院に併設された礼拝堂でお祈りをしました。病室でパジャマを着て横たわっている妹を見舞うことはとてもつらいことでした。結果から言うと、実は診断ミスで妹は乳腺炎で〈乳がん〉ではありませんでした。このときに礼拝堂で二人で祈った切なさが、夏の海で怪我をした妹に重なったのです。

また、その後、母が80代になろうとしていたとき、妹に今回は誤診ではなく本当の〈乳がん〉が見つかりました。母から「私は何もできないから、お願いね」と言われ、妹の検査結果を一緒に聞いたり、手術の日は千葉の病院まで行き、病院の最上階で海を眺めながら、妹の手術が終わるのを待ちました。手術は無事に終わりましたが、このときも妹がパジャマを着て病室のベッドに横たわっているのを見て、胸が締め付けられるように感じながら、切ないばかりでした。その後、もう10年ほど経ちますが、彼女は元気に過ごしています。

7歳違いの妹、子ども時代はとても大きな差がありましたが、今は全くもってお互いに同じ大人です。子育ても経験した彼女は私が社会的に疎い部分をよく指摘して、「おねえちゃん、世間はそうは見ないよ」とか、厳しい発言をしたりします。でも、彼女は私にとってかけがえのない存在で、どこかでお姉ちゃんである私は「妹を守らなくては」という気持ちが常にあるようです。

私が忘れられない夏の思い出は、妹をかけがえのない存在と認識した夏でした。

サポーター

松薗ゆう
松薗ゆう
大学卒業後、国産および外資系化粧品会社で30年以上、勤務。現在、還暦を前に犬と植物を愛でる生活を満喫中。

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