自分らしく

May in Paris(パリの5月)

パリの5月は春たけなわ、日差しは日々、急速に長くなり、街にはマロニエや藤、春の花々が街路樹や軒先に咲き乱れる。1949年のそんな時期、アメリカの若い新進ジャズトランぺッターがこの花の都のサン・ジェルマン・デ・プレに公演旅行でやってきた。後にモダンジャズ最大の神話となるマイルス・デヴィスだ。

23才の彼にとり初めての海外、彼は見聴きする全てに文字どおりに『魂消て』しまった。何よりも彼を驚かせたのは、故国では、生活すべてで差別の対象だった無名の「黒人の若造」が、当時、世界最先端の風俗、文化の中心だったこの界隈では、新たな芸術の創造者としてもてはやされ、彼の音楽も文化人や若者たちに熱く受け容れられたことだった。サン・ジェルマン・デ・プレでは、ジャズは古い権威からの解放、自由の象徴だったのである。そして、彼の演奏を聴きに来ていた、ほぼ同い年の大きな褐色の瞳をもつ長い黒髪のフランス人女性、ジュリエット・グレコとあっという間に恋に落ちた。当初、マイルスは、この才気あふれた女性がサン・ジェルマン・デ・プレでは既に評判の女優兼歌手だったことも知らなかったという。

ジュリエット・グレコは『実存主義者のミューズ』と呼ばれていたが、この『実存主義』を当時、大流行した哲学の一ジャンルととらえるだけでは十分でない。それ以上に、『自由を謳って刹那的な享楽に走る反抗的で非道徳な若者とそれを煽動する知識人』なのであり、グレコはその典型としてスキャンダラスに取り上げられていた。若かったグレコの美しいが特異な風貌と、初期の録音でのぶっきらぼうな歌唱に当時のフランス人が受けた衝撃は、日本人には山口百恵の「バカにしないでよ」に近いものだったのだろう。

フランス語を話せない黒人青年と英語を解さない白人娘はそれでも、毎日のように新緑のセーヌ河畔を連れだって歩き、片言と身振り手振りで気持ちを伝えあったという。実はパリにも人種差別がないわけではないし、まして70年前、珍しい黒人と白人のカップルは周囲から好奇の目で見られ、からかいの言葉さえかけられたろう。しかし、毅然として鼻っ柱の強いグレコはそんなことに全く動じなかったし、ときには猛然と言い返しさえした。マイルスは、そんな女性は見たことがなかった。彼は自伝に書いている。「まるで魔法にかけられたようだった。そしてパリでのことは私の人生の見方すべてを変えてしまった」。

マイルスのパリ滞在は2週間弱、音楽ファンに伝説的に伝えられるこの恋も、一瞬に輝き消え去る花火のように終わった。マイルスには既に妻子もいたし、グレコも恋多き女性だった。何よりもアメリカ黒人のマイルスには異人種間の恋や結婚など、愛する人を不幸に突き落とすだけのものとしか思えなかったのだ。1950年頃のグレコが恋人とベッドで寝そべる写真がある。ベッドの脇の壁には、トランペットを持つマイルスの写真が見守っている! 

それでも、ふたりの交友はその後も生涯にわたり続いた。複雑で気難しく、暴力的でさえあったマイルスだが、ことグレコを語る際は、「これが同じ人間か?」と思わせるほど素直で優しい。晩年、グレコのテレビ特番に出演したマイルスは「なぜ、遠くからわざわざ?」という質問に照れることもなく「Because she is my first love」と答えた。それを隣のグレコもまるで十代の少女のように顔を赤らめ、嬉し笑いで俯いていた。死の直前にもマイルスはグレコを訪ねている。かつてのようにふたりでパリを歩き、グレコがふと振り向くと、マイルスは笑ってこう声をかけたという。「世界中のどこだって、君なら後ろ姿ですぐわかる 」と。

▼参考1
グレコも聴いたであろうマイルスのパリ初訪問時に録音されたレコード
https://www.youtube.com/watch?v=DL_Sqwkbys8

▼参考2
グレコは戦後直後の過激だったサンジェルマンデプレの喪失を一抹の苦みとともに優しく回顧する『もう何もない』という曲を60年代に歌った
https://www.youtube.com/watch?v=LU6JE1D9wTc

▼参考3
49年から50年代のグレコのあまりに魅力的な容貌
0’49あたりのグレコが、マイルスと出会った頃の彼女だったはずだ
https://www.youtube.com/watch?v=cg0VlriQaYs

サポーター

坂下健司
坂下健司
いよいよ還暦、そして定年。「この機会に生き方をガラッと変えられないか?」などとずっと考えています。ごく「フツー」の冴えないサラリーマン生活だったわりには、なぜかちょっとした冒険にもいろいろとした巡り合えたし、ここまで生きてこられた恩を自分以外に返さなきゃなぁ、と思う今日このころ。

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