自分らしく
諸行無常
「諸行無常」は仏教用語で、この世の現実存在(森羅万象)はすべて、姿も本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう(Wikipediaより)。
友人の早世
つい先日、高校時代の友人が膵臓癌で早世した。ラグビー部で活躍していた彼は、僕なんかより長生きできそうなほど元気だった。その夜、献杯を重ねた後の鏡に映った僕の顔は、一晩で老人に変わったように見えた。死への恐怖に怯える年老いた男に見えた。無常だなあとつくづく感じた。
「無常」という現実に直面する機会は歳をとるに連れて多いのだけど、同い年の友が亡くなるのはかなり堪える。永遠に生きる人間はいないし、「死」は公平に配分されるものなのだけど、「今じゃないでしょ」と天を仰いだ。
「無常」という言葉の本当の意味
高校時代に現代国語の授業で小林秀雄の『無情という事』を読んだとき、僕は違和感を覚えた。彼が「無常」とは「生々しい絶望感」だと捉えていたからだ。もっとも、多くの日本人が「無常」という単語に「絶望感」や「死」といったイメージをもっているのは事実だ。古典にすら、そういう意味で使われているものが多い。だけど、「無常」という言葉は決して悲観的なイメージではないと僕は本能的にそのときに感じたから、違和感になったのだと思う。けっして小林秀雄を揶揄するつもりは微塵もないんだけれど。
大学に入り喘息という「苦」を抱えるなかで、仏教を学ぶうちにその答えは見つかった。「三法印」のひとつである「諸行無常」が仏教の真髄を意味することに気づかされたのだ。それは「変化していく世界のなかで、変化を超越する存在はない」という前提条件を意味するのだけど、この現実世界の捉え方はまさしく仏教の本質を指しているのだと思う。
前にも僕は「仏教は人間的で人間本位の教え」だと書いた。仏教の教えの側面には「因果律を乗り越えて人生を切り開く」ところがあると思っている。なぜなら、「諸行無常」という言葉の意味は「生じたものは必ず滅する。世界の全ては変化していくという絶対条件のなかで、有限の生命に無限の価値を見出そうとする可能性」を表しているからだ。言い換えれば、変化しないものはないのだから、自分で変化させようよという乗りなのだ。
もしも人間が永遠に生きるのであれば、結婚したり、子孫をつくったり、仕事をすることも必要がなくなる。限りある人生だからこそ、刹那刹那を大切にしなければならない。因果律を乗り越えて、努力して自分にとってプラスの方向へと変化させて行く道を、僕たちは「選べる」のである。
だから「諸行無常」を、ただ「生々しい絶望感」だと捉えてはいけないのだと思う。無常を感じて、努力して前進することができるのが人間なのだと思う。そして自分のプラスになるように努力することを仏教では「功徳」(くどく)と呼ぶ。僕も「口説く」ではなく「功徳」を積んでいきたいと切実に思う今夜だ。
サポーター
- 1955年、羊年の山羊座生まれ。
2017年、大阪でコーヒー焙煎卸会社を経営。現在はマンションに建て替えて「悠々自適になる」つもりが、そうでもない状況。
千葉市在住。千葉ではパソコンメンテとWEBサイト制作会社を経営。
趣味はパソコンの組立&再生、ピアノとギターの演奏、読書。
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