自分らしく
「因果律で支配される世界」で 「自由意志」はあるのか
「覚る」が意味するもの
私は大学生の頃から喘息という病で悩まされております。「小児喘息は治るが、大人の喘息はたちが悪いんだ」と、大学の保健センターの医師がわざわざ私に言うもんだから息ができなくなって、「このまま死んでしまうのか」と毎夜のように考えたものです。そして、これが私の「運命」ならもがいても仕方がない…とまで覚悟しました。
でも、「覚悟するとは、どういうことなのか」を考えました。「さとる」という文字がダブルなんだから(悟る・覚る)、相当の意志の強さがあるポジティブな意味なのかと思いきや、辞書で引くと仏教用語で「心構えやあきらめ」と書いてある。え~っ。諦めろってか。笑っちゃいました。それから私は仏教という「教え」に興味をもち、解説書やら経典訳をひもとき始めました。
仏教は読んで字のごとく仏の教えです。「覚る」方法の教えです。覚るとは苦からの解放です。神に頼らず人間自身が行ずることを通じて「涅槃」という境地に到達して、「生きる」という苦からから解放されるのです。まさに人間中心主義的考え方なんだと感じました。
因果律と業(カルマ)
この世のすべての事象は、原因のなかにすでに結果が包含されているのか……否!
仏教以前のインドでは、「一切の事象(人間界の出来事)は本来、善悪無記である」と捉え、「業(カルマ=行い)に基づく輪廻の世界では、苦楽が応報する」と説かれています。つまり、「善因には善果、悪因には悪果が訪れる」という業の因果の法則が説かれているのです。
過去世に造った業を「宿業」または「前業」といい、宿業による災いを「業厄」といいます。宿業によって逃れることのできない重い病気を「業病」といい、自分の造った業の報いは自分が受けなければならないということを「自業自得」といいます。また、こういった考え方を「因果応報」と呼んでいます。
仏教では基本的には因果律をベースに考えているのですが、仏教が目指す仏の境地、つまり「覚りの世界」というのは、この因果応報、六道輪廻(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天を輪廻する)という概念を超えたところに自身の力で開かれるものだと説いているのです。
まさに、仏教は人間自身の力で因果応報や自業自得といった抜け出せない宿命からの脱却を教えてくれる教えなのです。まさに、仏教的考え方には自由意志があるのです。
一神教(キリスト教やイスラム教)の神が決めた「運命」にも矛盾があって、神学では議論百出の命題なのです。でも、とりあえず神は唯一絶対、全知全能なのですから、運命を信じて生きなければなりません。そこには人生を自分で変えるという「自由意志」は存在し得ないのかもしれません。喘息で悩んでいた大学時代の私はそういうふうに考え、「今、もつべきものは仏教的に病を克服する道なのだ」と感じたのでありました。
サポーター
- 1955年、羊年の山羊座生まれ。
2017年、大阪でコーヒー焙煎卸会社を経営。現在はマンションに建て替えて「悠々自適になる」つもりが、そうでもない状況。
千葉市在住。千葉ではパソコンメンテとWEBサイト制作会社を経営。
趣味はパソコンの組立&再生、ピアノとギターの演奏、読書。
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