自分らしく

メタバースの危険性を考える(1)

デジタル社会で自殺者が増えた?

自殺が増えていると聞きます。

コロナのせいだ。イジメのせいだ。ハラスメントのせいだ。将来に絶望したせいだと、いろんな理由が言われます。そして、それらの理由にはある共通点があります。それはすべて「人間関係」の問題だということです。

また、不安から鬱(うつ)になって自殺する人もいると聞きます。ただ、不安だけで自殺はしないと私は思います。「不安」は全ての動物が本能的にもっているもので、生きるために必要な感覚らしいです。不安だから周囲を警戒する、不安だから注意深く生活する、不安だから備えを怠らない…そんな感情というか「感覚」なんです。それは、「対象(原因)の不明な恐怖感」と呼んでもよいかもしれません。だから、不安があっても動物は自殺しません。

では、なぜ人間は自殺してしまうのでしょうか。現代人は、「他人と比べて自分は不幸だ」と思い込みがちです。自分という普遍の自分があるわけないし、昨日の自分と今日の自分も明日の自分も違うのに、なぜ現代人は「人間関係」で悩み生命を絶つのでしょうか?

また、資本主義という精神にまみれているせいか、生命は自分のものだと思いがちです。しかし、生命は自分のものではありません。人間は自然の一部なのです。自然が永遠に続くように、人間もその一部として一緒になって育たなくてはなりません。だから、自分で勝手に生命を断っていいわけがないと思うのですが、違うでしょうか。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず

流れ過ぎていく河の流れは途絶えることがなく、それでいて(そこを流れる水は)もとの水ではない。(河の流れの)よどみに浮かんでいる水の泡は、一方では(形が)消え(てなくなり)一方では(形が)できたりして、長い間(そのままの状態で)とどまっているものは何ひとつとはない。この世に生きている人と(その人たちが)住む場所もまたこの流れと泡のようだ…と「方丈記」の冒頭に書かれています。

以前、「諸行無常」について書きました。諸行無常とは変わらない物はないということ。今、見ている物も正確には過去の姿。ずっと同じ物は一つとしてありません。「同じであること」「人間は平等だ」は人間の意識のなかでの妄想なのです。だから、他人とは違うし、未来も違う。生き方も違って当たり前なのです。平等なのは人間ではなくそれぞれの機会のことなのです。

猫は「猫」とひとくくりに指しますが、一匹として同じ猫はいません。同じように、人も便宜上「人」と呼びますが、それは意識のなかでまとめているだけで、同じ「人」はいません。大人になり方も、知識も、家族も、考え方も、感じ方もすべて違います。なのに、あの人は幸せで、私は不幸だと勝手に思い込んで思い悩み、自殺したりしちゃいます。なぜ、幸不幸の妄想に取りつかれるのでしょうか。

背番号が付いている自分という存在を自分でも認めて、自分という客観的な自分像を求めるわけです。ところが、50年も60年も生きてきた人間なら、社長である金持ちの自分とか、教授として研究者である自分とかがあるわけですが、まだ20代や30代の人間にそういった客観的に貼られたラベルなどないのが普通です。だから、他人の生き様を見て自分を空虚に感じ、「自分とはなんだろう」とか「自分探しに出る」などと無意味な発想になるのだと思います。

人は変わって当たりまえ。他の人とは違うんだ。また、これからも変わっていくのだと気づけないから、幸不幸の妄想に取りつかれ、ストレスで体調異変が起こり、普通に思考できなくなって自殺するのかなぁと想像します。

サポーター

福田正文
福田正文
1955年、羊年の山羊座生まれ。
2017年、大阪でコーヒー焙煎卸会社を経営。現在はマンションに建て替えて「悠々自適になる」つもりが、そうでもない状況。
千葉市在住。千葉ではパソコンメンテとWEBサイト制作会社を経営。
趣味はパソコンの組立&再生、ピアノとギターの演奏、読書。

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