自分らしく
〈バレエへの招待〉(10)日本のバレエ はじまり物語 Part 2
3人のパブロワ
日本に再びバレエの火をともしたのは、3人のロシア人女性でした。奇しくもこの3人は、すべてパブロワ姓(パブロヴァ、もしくはパブロバと表記されることもある)ですが、血縁関係はありません。
日本初のバレエ・スタジオをつくったエリアナ
エリアナ・パブロワは母ナタリア、妹ナデジダとともに、ロシア革命を逃れて1919年に来日します。最初は社交ダンスを教えていましたが、のちに『エリアナ・パブロバ・バレエ団』を旗揚げし、さらに1927年には鎌倉に日本で最初のバレエ・スタジオを設立して数多くの門下生を育てました。彼女のもとからは、服部智恵子、橘秋子、東勇作、貝谷八百子、島田廣など、その後の日本の著名バレエ団の創設者となる人物が輩出しています。
初めて日本の大衆にバレエを見せたアンナ
アンナ・パブロワはマリインスキー劇場の人気バレリーナでしたが、さらなる活躍の場を求めて自身のバレエ団を設立、世界各国を巡業します。1922年には来日し8都市で公演を行い、本場ロシアのバレエを初めて日本人の一般大衆に披露しました。この公演を観た日本人ダンサーは深い感銘を受けたそうですが、一般の観客のなかには、トウシューズで踊る姿を一種の曲芸だと勘違いした人もいたそうです。
ロシア・バレエの理論と技術を導入したオリガ
オリガ・サファイア(本名はパブロワ)は日本人外交官・清水威久と結婚して日本国籍を取得、1936年に来日します。彼女は宝塚少女歌劇の創設者・小林一三から、『日本劇場』で本格バレエ公演を行ってほしいと依頼され、『日劇ダンシングチーム』のバレエ教師に就任、ロシアの正統派バレエの理論と技術を日本に根付かせます。彼女は1951年まで日本劇場に在籍し、松山樹子、松尾明美、谷桃子らを育てました。
サポーター
- お笑いバレエ・ライター。
子どもの頃からの憧れだったクラシック・バレエを30代から習い始める。この経験をもとにバレエ誌に寄稿するようになり、その後、バレエ関連のライターとして活躍中。
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