自分らしく

〈バレエへの招待〉(10)日本のバレエ はじまり物語 Part 3

ふたたび暗黒の時代へ

3人のワガノワによってようやく日本でもバレエが根づきはじめようとした矢先、時代は戦争へとまっしぐらに進んでいきます。欧米発祥の輸入品であるバレエは『敵性文化』とされ、レッスンまで禁止はされなかったものの人前で踊ることはできず、果てはバレエ用語まで日本語への置き換えを強要されるような状況に陥りました。

日本のバレエは、ふたたび暗黒の時代を迎えたのです。そしてバレエがもういちど日本人の観客の前で踊られるようになるには、戦争の終結まで待たなくてはなりませんでした。

終戦の翌年に全幕公演

1945年、戦争が終わったその年に、当時服部・島田バレエ団を主宰していた島田廣は全幕バレエの上演を企画し、戦前から活躍していた東勇作、貝谷八百子、そして上海バレエ・リュスに在籍していた小牧正英らを伴って『東京バレエ団』(現在の『チャイコフスキー記念東京バレエ団』とは別の団体)を結成します。

そして第1回公演として、『白鳥の湖』全幕を上演することになりました。しかし、戦後の混乱期のこと、ダンサーはもちろん、シューズやタイツさえ不足する なかでなんとか工夫を重ね、ついに1946年8月9日、帝国劇場において『白鳥の湖』全幕が上演されました。演出・振付は小牧が担当し、出演には小牧、島田、東、貝谷に加え、服部智恵子、松尾明美、松山樹子ら、のちに戦後日本のバレエ界を牽引するダンサーたちが顔をそろえました。公演は文化に飢えていた日本人に大好評で迎えられ、当初8月25日までの予定が30日まで延長されるという異例の事態となったそうです。

今では全国どの都市にもバレエ教室があるほど発展した日本のバレエ界ですが、その発展は、この公演を起点に始まったといっても過言ではありません。

サポーター

加集 大輔
加集 大輔
お笑いバレエ・ライター。
子どもの頃からの憧れだったクラシック・バレエを30代から習い始める。この経験をもとにバレエ誌に寄稿するようになり、その後、バレエ関連のライターとして活躍中。

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