自分らしく
「祈り」について思うこと
独りでは抱えきれない現状に祈る
今年の9月、娘が三人目の孫を産んでくれました。実はその一月前に係の産婦人科の先生から、生まれる子の頭が異常に大きいので神奈川県立こども医療センターへの転院を勧められました。娘の第一子がダウン症だったので、安全を考えてのことでした。娘の夫は忙しく時間が割けないので、親である私と妻が娘の居る横浜市に千葉から毎日のように通い、こども病院に付き添ったり上の子どもたちの面倒をみたりしました。
大頭症などの場合、知能障害が残ることがあるそうで、娘夫婦は当然、私たちも非常に心配で家でじっとしてられませんでした。「最初の孫がダウン症で三番目も障害があるなんて、神様はなんと惨い」と祈るような想いの一ヶ月でした。家族や知人全てが祈りに祈ったせいなのでしょうか、9月半ばに生まれてきた子の頭囲は正常の範囲内でした。
今となっては笑い話のようなことも、その時の当事者である娘夫婦や私たちは生きた心地がしませんでした。人事を尽くして天命を待つにも、人事を尽くす術がない状況下では、本当に「祈る」しかないのだと改めて感じました。
子曰く、五十にして天命を知る
孔子は65才ころに「五十にして天命を知る」と言ったといいます。彼は50才ころに天からの使命を感じて堂々と国を導き国政を担ったのですが、政争に敗れ国外へ逃れました。そして15年もの放浪ののちに帰国した直後に発したと云われる言葉です。
「50才のころには天の使命を感じて政治に励んだのだが、天にも助けてもらえなかった」という自分の過去を弔うような思いもあったかもしれません。そして「戦争に明け暮れる世の中で、国を護り、国民を導くという天から与えられた使命を遂行するなかで、その天にも見捨てられたという悲しみを乗り越え、今また新たに自分の生き方を見つけたこともまた天命である」という思いが込められた言葉であると感じます。
天命とは合理的と言えば合理的、不条理と言えば不条理の掟のようなもので、人間はそこから逃れたり、自由になったりすることはできないのかもしれません。
孔子は「人間が幸せになるためには、どう生きれば良いのか」を常に考えていました。逆にすべての人間には幸せになる権利があるのだというところまで考えていたようです。それを「仁」という言葉で表しました。「仁」とはすべての人間が幸せに生きていくための人間の人間に対する考え方で、言いかえれば「まこと」「まごころ」「人の道」といった相手を労る優しい心とお互いに助け合う「喜びの道」を表す言葉だと思います。
そういった人の道を歩んでいる人間でさへも、ときとして天は(命めい)を与え、罰を与え、絶望をもたらすことがあります。そんなときに人は祈ります。自分一人では抱えきれない不条理を前に祈らずにはおれません。それは心の底から湧いてくる祈りです。
湧いてくる「祈り」とは
天命を不条理なものと言いましたが、「人間が抗うことのできないもの」という意味であるかと思います。そしてその天命にはプラスとマイナスの側面があります。混沌から調和ある状態にしていくプラス面と、徐々に朽ち果てていくマイナス面のふたつです。
「なぜ自分に・・・」「なぜ私だけが・・・」と放っておけば地獄へ真っ逆さまの状態のときに、人間はこの流れに抗うことはできないまでも、自分のできることはやり尽くす気概がなくては天に通じないかもしれません。「人事を尽くして天命を待つ」というのは、まさにこの「湧いてくる祈り」の状態をいうのだと思いました。
そして、この秋の娘の出産の際に、私たち家族の心の底から湧いてきた「祈り」を別の言葉に置き換えると、「無償の愛」というのだと、生まれてきてくれた小さな孫の手を握りながら感じました。
サポーター
- 1955年、羊年の山羊座生まれ。
2017年、大阪でコーヒー焙煎卸会社を経営。現在はマンションに建て替えて「悠々自適になる」つもりが、そうでもない状況。
千葉市在住。千葉ではパソコンメンテとWEBサイト制作会社を経営。
趣味はパソコンの組立&再生、ピアノとギターの演奏、読書。
プロフィール
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